転落人生の始まり!?でも当時は気がつかなかった ㉑

職場の事(~2016)

10/6早朝にUSのアパートを出発してセントレア空港到着が日本時間18時頃。そして自宅に到着したのが翌日の早朝6時でした。

移動がほぼ地球の裏側からなのと、乗り継ぎが悪いのとで行きと同様の長時間となり、疲労はかなりのものでした。

そして8時15分に直属の上司S部長に「無事に帰ったこと」と「今日は会社を休む」ことを伝えました。S部長は「ご苦労さん!2日ぐらい休んでもいいぞ!」と言いましたが、私は「1日で大丈夫です。明日から出社します!」と伝えます。

出発前にS部長が私に怒りまくって放った言葉「おまえの仕事まで俺がしなくてはならない!そうなると俺が大変になるだろうが!!!」がありますから2日は休んでられません。

しかし帰国後も、すぐには通常の業務に戻ることは出来ませんでした。報告会があちらこちらであるからです。

そうなるとS部長の不満が溜まっていくのに時間はかかりませんでした。


スポンサーリンク

帰国後の出張報告での出来事!

10/8に3カ月ぶりの出社となった私は、朝の管理職ミーティングで出張報告をすることになります。

この出張報告についてはM工場長から「問題の管理職4名」には守秘義務の立場から詳しいものは避けるよう事前に言われています。その理由は「彼らは取引先にいらないことを言いそうだ」との事。ボソリ呟くM工場長の苦い表情がありました。

なので私の出張報告の内容は「日本人とアメリカ人の労働に対する考え方の違い」から起きている背景のみに留め、「US工場の具体的な問題点」「改善のために手掛けた内容」など、私がしてきた事については「問題の管理職たち」に報告出来ない事を伝えました。

するとあまりにも中身の無い報告内容に「問題の管理職たち」の誰かが不満を口にした瞬間、M工場長が、「詳しい出張報告は取引先にて今後することになるが、内容が当社の事ではないため他では控えるように私から言ってある!」とアシストの一言。

M工場長の一言でその場は収まりましたが、M工場長のいない所で数日間「あんな報告があるか!」とか「俺たちは何も聞いてないからな!」とか、訳の分からない嫌味を言われました。

私は「やっぱりコイツら、変りないな~。腐ってるわ…」と心底思いました!

しばらくは元の業務に戻れない!

この頃、私にはまだ取引先本社と当社本社でのUSの報告の仕事が残っています。その資料作りで現場を頻繁に離れる期間が約1週間ありました。

そして資料が出来上がると当社本社にて取締役数人の前で練習がてら報告会をすることになりました。資料は閉会後に、これも守秘義務ということで回収しました。

その数日後、遠方にある取引先本社にて報告会を行いました。M工場長が隣でサポートしてくれることと、US工場でお世話になった「懐かしい顔」数名の方も帰国出席されており、その再会もあって緊張よりも嬉しさが勝っていたのを覚えています。

そうしてUS関連の仕事の全てがようやく終わり、結局、通常業務に戻れたのは10月も終わりが近づく頃でした。

そして元の暗い日常に戻る!

10月下旬から通常業務に戻った私は「問題の管理職4名ら」の訳の分からない話を毎朝の管理職ミーティングで聞くうちに思考が急激に鈍くなっていきました。

あれだけ「澄み渡った自分」となりUSから帰ってきたのに、この時にはすっかり曇り濁ってしまっていました。

特に直属の上司S部長はこの頃、私によくこんな事を言っていました。

「オマエが現場をほったらかしている間、俺はどんなに大変だったか!オマエに分かるか?」とか、「オマエも大変だったろうが、それ以上に俺は大変だったんだぞ!」とか・・・。

私は、そんなことばかりを聞いていると、アホらしく返答もしなくなります。また、あまりにも思考の次元が違い過ぎて、段々と話もかみ合わなくなっていました。

この頃から毎朝の管理職ミーティングで私は発言をほとんどしなくなりました。


スポンサーリンク

12月・・・なんとUSから2人の来客が!

そうして淡々と業務をこなし、定時で帰宅する日々に戻った私。

あれだけこの仕事に情熱を持って取り組んでいたのに、今では探求することもなく、殆ど誰ともしゃべらず、さっさと帰宅するつまらなく、くだらないと思う毎日となっていました。

そんな12月の中旬、なんと当社にUS工場の副社長が来社されると朝のミーティングでM工場長から管理職全員に伝えられました。その要件は「私に会いたい!」とまさかの一言。

大変光栄なことですが、変わり果てた今の私をそのまま晒す訳にはいかない・・・。この沈んだ気持ちで上手く応対できるか心配でした。

US工場の副社長が来社!

US副社長は他2名で13時すぎに来社されました。副社長とは感動の再会の要素が強いため、心配せずとも私の沈んだ気持ちは自然と吹き飛びました。他のお二方も渡米の打合せで大変お世話になった方々で、自然と会話は来客の3方とM工場長、そして私が中心となっていきます。

そして応接室での談笑の後に工場案内をすることになりますが、そこでもUS副社長と私のやりとりが中心となり、知らず知らずのうちに私が先頭に立ち案内をしていました。

M工場長と私以外の「問題の管理職4名」は来社された全員がまるっきりの初対面だったことなのと、私の出張報告が彼らには詳しく伝えていなかった事から、この場は完全に「蚊帳の外」だった事を覚えています。

「問題の管理職4名」は当事者ではないので普通は仕方がない・・・と思う事なのですが、「彼ら」はこういうことにも機嫌をそこねていくのでした・・・。

2.プライベートで通訳さんが来日!

US副社長来社の翌週の土曜には、なんとUSでお世話になった通訳のKさんと、私の地元の駅で待ち合わせをすることになりました。Kさんは数日前から来日していて日本での滞在は3週間位。その間、友達の所を回ったり観光したりするとのことで、そのスケジュールの合間に遠方の私に会いに来てくれたのです。

私はUSでの返しきれない御恩があるため、精一杯のおもてなしを考えますが、滞在時間が4時間ほどしか無く、それも暗い時間帯なので民宿で料理を振舞うことしか出来ませんでした。

ただ、この席には「私の家族も同席」したので、Kさんに紹介出来たことが良かったですね!

Kさんも私の家族と会う事を一番希望されていたので、大変嬉しかったとおっしゃっていました。

そうして華やかで短い再会の時は過ぎ、駅の改札でKさんと私たちはハグを交わし別れました。改札口を過ぎて消えていくKさんを、私は涙をこらえ見送りました。

おそらく、もう二度と会えないだろうと・・・。

そうして2014年も終わろうとしていました。

続きは、転落人生の始まり!?でも当時は気がつかなかった ㉒で書いていきます。

私は今まで生きてきた中で、今では思い出となった、忘れられない・・・大切な人たちがいます。年齢も性別も人種も関係なく、その一人一人との出会いは、この「現世」で奇跡的に巡り合ったものと感じています。

正しく”一期一会”(いちごいちえ)のことわざの通り、その機会は二度と繰り返されることのない一生に一度の出会いであり、それを心得ながら、お互いが誠意を尽くして何かを共に成し遂げる・・・。私の「忘れられない大切な人たち」は、そんな風にお付き合いさせて頂いた方々でした。

同じ時を過ごす…ただそれだけで自然と多くの「気づき」や「学び」を相手に与え、その人の思考を引き上げ、その後の「人生」にも影響を与える存在・・・。

そういった素晴らしい方々のおかげで、私はここまでやってこれました。感謝です!!!。

しかし以後、私は落ちていくのです。


スポンサーリンク

コメント

タイトルとURLをコピーしました